読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Fury Road

憤怒と死の砂嵐が轟々と吹き荒れるこのデスロードで派手に散るべく、ガソリンと火薬とともに日々の怒りを今日もぶちまけろ!!!

闇鍋日記:アインシュタインの脳とリビングにおける机考

かつて何かのテレビ番組で、おそらく科学おもしろ番組的な企画だったと思うのだが、アインシュタインの脳の構造について特集していた。幾分昔のことだし専門的な用語など深入りするのは避けておきたいが、ざっくり言うと、アインシュタインの発想力が優れていた一因として、脳のある部分の「しわ」が人より少なかったため、そのぶん発せられる電気信号が直線経路で伝わったため思考力・発想力など脳力に優れたのだという。これは今になって考えると随分啓示に富む発見である。

 

たとえば、今私の部屋の真ん中あたりには丸テーブルが置かれている。これは年月を経て完全に空間に馴染み、なんの疑いもなくここに存在できている絶対的な風景としての机とも、もはや言っていい。ではこの机の配置を動かしてみたらどうだろうか?なんとなく丸机が中央にあるリビング像というものが私の頭の中には支配的に根付いていたが(これはおそらくドラマやらテレビやらによってもたらされる共同幻想とも言うべき「部屋像」に起因する。ちょっとだけ社会学的な視点を交えれば、つまり理想的な幸福のモデルとしての家族によって囲まれるための食卓としての機能に特化した配置ということになろうか。しかし『家族ゲーム』、あ、ここで言ってるのは松田優作が家庭教師役を怪演した映画版のことですが、この映画は既に、この幸福な家庭という幻想の欺瞞性を巧みに暴き出していたではないか。世代的にこの映画が当時どのような反響を及ぼしたのか、ヒットしたのか、その辺の事情には詳しくないが、これを見たそういう幸せな家庭のステレオタイプを築くために邁進してきた人、例えば一家のお父さんとかはどんな顔をしただろうか…。お前の頑張ってやろうとしてることマジなんの意味もないよ!って言われてるようなものである。こうした家庭のモデルを集約したリビング像、ひいてはリビングにおける机像を、長年疑いももたず無思考に陥っていたことには私に不義があったと言わざるを得ない)、これを変えてみることは、自分に根付いた常識を疑い飛躍する突破口となりうるのではないか?丸いからといって窓際において生じてしまう隙間を気にすることもない、案外気にならない取るに足らないスペースなのかもしれない。そもそも部屋の真ん中にでかでかとものが居座るっていうのはよく考えたら邪魔でしかない。それに俺一人暮らしやないか。誰と囲むというんだテーブルを。

 

自分がいかに常識に囚われているか、そのことに気づかないことはもうどうしようもなく絶望的な状況で、檻の中のサルかゾンビみたいなもんだと思うが、気づいているが故に苦しい、いまひとつ突破口が見出せず圧迫感を感じるというのが現代人に特有の悩みの一つだろう。そもそもそういった常識が幻想に過ぎないと認めきった行動をとることは、自分の過去を清算する行動であり、もっと言えば自分の過去の大半を無意味なものと割り切ることにもなる。思春期とかからこうした状況に違和感を感じ何か主体的に没頭できるものを見つけ己の牙を研いできた人々。そんな人に僕は大学に入ってから沢山出会ったきがする。その時期はあるいはSNS文化の台頭、ウェブ2.0という誰もが発信者になる時代の成熟とも重なったかもしれない。世界には俺と同年代、あるいは歳下でこんなことしてるやつがいる、こんなこと思いつくやつがいるということが可視化された状況は、ともすれば余計な焦燥感や迷い、苦悩を生じさせてしまう。ようやく自分が押し付けられたものだけをこなす能力に関してはたまたまそこそこ長けていたのだということに気づいたのんびり屋さんは、一体どうサバイブすればいいのか。

 

この焦りを解消する術として、可視化されたウェブ上の人々の営みを、総体として見ない、ということがあると思う。どういうことかというと、他人は1人1人しかいないのであって、どんなにすごいやつだってちゃんと寝たり、時には休憩したりしてるはずである(たまにそれをしないで体壊す人もいるとかいうけど一旦置いておく)。しかし、ネットの台頭によって他人という存在が塊として対峙してくるような感覚が生じてきているのではないか。不安はまさに、ここに起因する自己肯定感の希薄さなのではないだろうか。だから、他人は気にしない。あくまで上下の優劣のない純粋情報として見る。そのためにファボの数が見えないツイッターのクライアントを使うとかから始めて見てもいいかもしれない。数値化されてしまうとどうしても変に比べたくなってしまうから。

あとはとにかく自分も常識とか規範とかは無視して好きなことに特化する。牙を研ぐ。これは大槻ケンヂ氏が言うところの「自分学校」であり、堀江貴文氏が言うところの「(勉強の対概念としての)学び」である。規範やら常識などファックオフ。うだうだ悩んでないで脳の小じわをなくしてみるしかない。こうしてみるとアインシュタインの脳の逸話は彼の脳力の高さだけでなく、人を常識に縛り付け可能性を狭めているのはほんの小さな小じわのような要因なのだ、という啓示にもきこえてくる。ほんの些細な習慣からでも常識を疑い脱ぎ捨てる癖をつけることが重要なのかもしれない。さあ、今日は机を動かしてみよう。