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Fury Road

憤怒と死の砂嵐が轟々と吹き荒れるこのデスロードで派手に散るべく、ガソリンと火薬とともに日々の怒りを今日もぶちまけろ!!!

『ある優しき殺人者の記録』評:POV猟奇ものとおもいきや宗教や偶然性の問題やら満載

ネタバレをしています!!!!以下注意!!!

 

大学1年か2年の時に批評家の佐々木敦さんの講義を履修していたとき、この映画の話題が出た。どう紹介されていたかつぶさには覚えていないが、すごいから見た方がいいというような方向のことを言ってらしたのは間違いないように記憶している。それからずいぶん時間が空いてしまったが、Amazonプライムの恩恵にあずかりようやく鑑賞すると、なんだかすごく腑に落ちた。佐々木敦さんがこの映画に惹かれたということが、である。

 

この間の正月頃、帰省中は例によってまとまった時間ができた(といえば聞こえはいいが、要するに暇だったのである)ので、佐々木さんの新著『未知との遭遇』を読んだ。この本は戦後のサブカルチャー、オタクなど大きな文化史、そしてネットの到来により我々の精神はどういった状態にあるかを丁寧に追ったうえで、「運命」というものとそう付き合っていくべきか、適格かつ様々な分野からの引用によって考察していくというのがおおまかな内容である。ここで採用される「最強の運命論」すなわち「起きたことはすべていいこと」(これは決してすべて神の思し召しだからとかそういう信仰的な話ではない)という考え方は、ポスト3,11的な意味でも普通に暮らしていくうえでも大変興味深いので詳しくはぜひ手に取って読んでみてほしい。最近の東浩紀さんの議論とも重なる部分があるようにも思える。

 

こうしたテーマを著書のなかで扱っているからこそ、先ほど私は、佐々木さんがこの映画を学生に紹介したのが腑に落ちたと言ったのであった。この映画はまさに偶然と必然の問題を扱っている。

 

物語はある女性記者が大量連続殺人の容疑者(二人は幼馴染であり、そのことを互いに知っている状態)から取材の依頼を受け、日本人カメラマンを伴い指定の廃墟ビルに向かうところから始まる。この映画は始終、この日本人カメラマンが持ってきた取材用カメラに映った光景という形態をとる。いわゆるフェイク・ドキュメンタリーというやつだろうか。恐る恐るビルをあがっていくと突如殺人犯が登場、刃物を突き立てられビルの一室に押し込められる。殺伐とした風景の室内で彼は一連の殺人の動機を語り始めた。この幼馴染の二人には幼少期もう一人仲の良かった少女がおり、しかし彼女は3人で遊んでいる最中にひき逃げに合ってしまっていた。それ以来精神に不調をきたし施設に収容されていた殺人者は、ある日死んだ彼女を生き返らせるための行動を示唆する神の声を聴くようになったという。じぶんはその神の声に基づいて施設を抜け出し、殺しを重ねてきたのだった。そしてそのお告げは、神の示す者をあと二人殺すことで完遂され、死んだ者は皆行きかえり、かつて亡くした幼馴染の少女も甦るという。さて、ここで神や復活と言った要素からキリスト教の黙示録的な世界を連想することは難しくないだろう。殺人者は女性記者の書いた記事を縦読みし、無理やりとしか思えない方法で神のお告げをひねり出す。女性記者はこんなの偶然よと止めるが、彼女の携帯にかかってきた電話が電波不良で「コロセ…」と聞こえたり、まさに神の声通りの時刻に廃墟ビルのその一室に日本人カップルがやってきたりと、単なる偶然で片付けるのが難しい出来事もいくつか起こり始めてしまい、記者は辟易する。この後の展開では予想よりもイカレ度の数段高かった日本人カップルの猛反撃もあり、全員を巻き込んだ阿鼻叫喚の殺し合いという様相を呈すこととなる。ここまでの話を振り返ると、宗教に対する原理的な盲信が歴史上どれだけ多くの血を流させてきたかということが思いやられる。この殺風景な部屋で起こっていることは、まさに世界のひとつの縮図とも言えるだろう。この殺人者の犯してきたことはいくら少女のためとはいっても、結局狂人のテロリズムとしか認識されることはない。結局、全員が死亡または瀕死という状況の中、女性記者が殺人者に言う。「このままだと無駄死にになっちゃうから、あなたの手で殺してね。」この手前の部分で、神の声の根拠となっている記事の縦読みの、「首にあざのある二人」という記述から、最後の二人は日本人カップルではなく、女性記者と殺人者の二人なのでは?という新解釈が持ち上がっていたのだった。この彼女の台詞は非常に重要で、つまり世界中で多くの人が理不尽な死や貧困に苦しんでいること、そのことに何の意味もないとしたら人は耐えられるのか?という問題がここには孕まれている。これはまさに聖書のヨブ記が描いたことそのままではないか。何の意味もなくサタンにそそのかされた神に熾烈な仕打ちを受け、絶望的な不幸がその身に降りかかったヨブ。彼はその理不尽な不幸の意味を神に求めることで耐えた。神がなさるからには何か意味のあることなのだと飲み込んで耐えたのだった。ヨブ記では最後彼は救われ、幸せな暮らしを取り戻す。しかし彼は辛苦の先に必ず幸福が待っているから耐えられたわけではなかった。この先この不幸が報われようが報われまいが耐えるしかなかったのだ。廃墟ビルの屋上で「これで何にも起こらなかったら許さんぞ」と絶叫する殺人者。彼は親友の死という理不尽な不幸にどうしても折り合いがつけられなかった。実際、その少女の死には何の意味もないことは明白であった。だからこそ彼は耐えられなかったのだ。だからこそ彼は自分から神との関連を求めたのだ。

 

ラストシーケンス、この映画を『素晴らしき哉、人生!』なみのハッピーエンドで締めくくるべく、ついに神の意志は作用する。ひき逃げの合ったあの日、少女を救い自分が身代わりになる殺人者。そして場面は変わり3人が幸せに顔をほころばせながら映画館に出掛けていく。彼らの頭の中には、絶望的な喪失から数十年越しの大殺人行脚というくらい記憶は当然ない。しかし、今さっき車に引かれた殺人者の彼はどうなったのか、復活したのか消えたのか、はっきりとは分からない。殺人者の彼が幸せを手にできたかどうかも。町山智浩さんが著書の中で、『素晴らしき哉、人生!』は実際は一概にハッピーエンドとは言えなくて、公開当時の観客たちはちゃんと、主人公がすべて奪われて絶望する、この不寛容さ・理不尽さこそが現実だよねということをわかっていた、という旨のことを、デイヴィッド・リンチ(たぶん)の言葉を引用しながら言っていた。この映画に関しても、理不尽に耐え切れず神の論理にすがった殺人者は狂人として処理されてしまうのが現実だろう。勿論だからと言って宗教や信仰に取りつかれ他者を攻撃することは決して許されない。しかし一方で、女性記者の死に際の台詞に集約されるような、「死(不幸)が無駄になるのは嫌だから、せめて意味を与えてくれ」という感情にも、共感せずにはいられない。こんな双方向的な感情に板挟みになって、この映画は「せめて映画の中でくらいは、彼のやるせなさが報われてほしい」という答えに達した。冒頭、フェイク・ドキュメンタリーという手法を生かして「これは映画だ」という宣言を早々に示したこと、そこに「このハッピーエンドは結局映画(虚構)に過ぎない」という悲哀な含みを感じてしまうのは、私だけであろうか。