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Fury Road

憤怒と死の砂嵐が轟々と吹き荒れるこのデスロードで派手に散るべく、ガソリンと火薬とともに日々の怒りを今日もぶちまけろ!!!

「コミュニケーション志向メディア」と発生可能上映

以下は最近やたらと目にする映画の発生可能上映に対しなんとなく虫が好かない思いがする筆者がその起源を求めようとする、遠く遠く宇宙の彼方心のイスカンダルへの壮大な旅記である。なお、本記事は東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』を読んで浮上した個人的雑感でもあるが、用語を一部流用させていただいているに留まり本の内容とは全く関係がないことをあらかじめことわっておきたい。

 

発生可能上映の濫発に、現代のコミュニュケーション重視型のメディアの在り方に無理に合わせた結果醜く歪んでしまった映画の悲惨をみた。この企画が健全に機能するとすればそれは、プロットや見所を共有したうえで友人どうし喋りながら鑑賞するようなものの延長でなければならない。そのモデルでは映画は本質というよりむしろ話の肴にすぎない。ちょうど友達と家に集まって誰もが知る超名作、あるいは当事者間で共有の確認が取れている作品をDVDで鑑賞しながらあれこれ言い合うというようなもなだろう(そもそもこの点で既にここ最近の発生上映に対する違和感が持ち上がる。シンゴジラのような社会現象化したことが数値的にも明らかな作品ならともかく、『アシュラ』や『フリー・ファイヤー』などは確かに傑作だが誰もが知っているという条件に照らすとかなり無理のあるチョイスだ。これにコスプレなどをして臨んでいるのを側から見るというのは、なんか違う感を抱かずにはいられないのだが、よく考えるとこれは単に友達どうしのうちわの集まりに呼ばれなかった寂しい男の嘆きにも近いのであまり整合性というか説得力はないように思う。単に自分の好きじゃない映画に周りが盛り上がってたときに感じるちょっとした疎外感のようなものと大差ないのかもしれない。しかし、発声上映というコミュニケーション重視の型と映画というメディアが構造的に相容れないのではないか?という提言はこの後の部分で成しており、そちらの方が客観性が高いと私は自負するので読んでみてほしい)。この観点でいくと発生上映も映画自体ではなく客同士のコスチュームや二次創作のアート作品、また突飛なギャグ的な掛け声を発明できるか等々を楽しむものだといえる。そこでは本質は映画作品じたいから別の所に移転してしまっており、これも東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生での議論に漏れず、キャラクターが作品を飛び出て一人歩きしデータベース的にメディアの枠を超え消費される例の一つといえるだろう。

 

私が発生上映に感じる違和感の起源を探るに、おそらくそれは映画はそもそも観客の映画世界、登場人物への同一化を前提とするメディアであるということだ。スクリーンに向けて声をかけ続ける、ここにはまるでフォロワーのいないツイッターにつぶやき続けるが如きむなしさがあるとは思わないだろうか?双方向の動的なやりとりは既存の映画の在り方では決して達成されない。スクリーンに映し出される映像はどの場所時間でも物理的、少なくとも作品の質的に差がないからだ。観客と作り手(スクリーン)のコミュニケーションが可能となるとしたらそれは第七芸術たる映画の枠を超えた別物となってしまう。映画発明以前に映画(らしきもの)を構想した人々はみな、観客が同一化し没入できる完全な空間の形成を夢想している(これはアンドレ・バザン『映画とは何か(上)』のどっかにちらりと書いてあった気がする。固有名は忘れた)。技術の制約上現在の視覚的、聴覚的に作品世界を享受する映画のスタイルに落ち着いているが、その意味で4DXのような試みは伝統的に映画の枠組みから外れるものではなくむしろ補完している。しかし双方向のコミュニュケーションはその当時においても想定されていなかったはずである。

 

発生上映に対する違和感は幾分個人的な感情に由来してしまっている部分があろうが、これも自分の真面目な、時に真面目すぎて融通の利かない性分にこそ依拠しているのだろうと自覚はする。しかしそれにしても、本質的に双方向的なコミュニュケーション志向のメディアでないもの、つまりコンテンツ志向のメディアにまで強引にコミュニュケーションを求めるのは如何なものだろうか。程度というものを知らねばならないだろうし、それに慣れるあまり本質的なコンテンツ型の作品の享受が総国民的に苦手科目となってしまっているきらいがないだろうか。これに対する批判として有効なモデルが一つある。例えば、男女でフェスに遊びにいくとする。そこでロックバンドの男ボーカルのステージに彼女は熱狂し酔いしれるが、一方でこのレジャーは二人にとって距離を縮め愛を育むデートとして成立しているというモテキ的シチュエーション、これこそまさに矛盾ではないだろうか。バンドのステージのような観客対演者の対峙型のエンタメの場合、その方向での双方向的コミュニュケーションが内容を変質させ良くも悪くもするということはあるだろう。しかしこの場において観客対観客の方向のコミュニュケーションが成り立つと考えるのはいささか欺瞞であるか、あるいはステージ上のライブ演奏がどうでもいいかどちらかであろう。これは観客たちが映画に同一化することで質的に同質の大衆と化す映画館デートの場合とは構造的にまた別の事案だが(バザンによると映画の場合のこの同質化によってもたらされるのは、映画感という暗闇の空間の中での匿名性らしいので、なんとなく二人で映画を見たことで心が通ったような気がするという絆の深め方は映画的に健全だが、場内が暗いのをいいことにチューチューいちゃこくのは作品を無視することであり、以下に指摘する行為となんら変わらないことに留意されたい)、つまりステージ上で起きている芸術表現を無視するあるいはBGM的な副産物として受容し、あくまで観客どうしのコミュニケーションに主として興じる姿勢に反感を感じる人は少なくないだろう?という話なのだ。

 

私的な意見になってしまったが、以上で発声上映に対し物申すことは短考ながらいちおうできたとおもう。極端に抽象化していうと、こっちは映画や演劇を観に来てるのに、隣でヒソヒソ喋ってるやつがいたら、あるいはロックフェスで突然肩車の上に乗ってステージに背を向けて周りを煽りだすアンちゃんが居たら、直接的な被害は被らないとしてもなんかいやだよねということになるのだとおもう。これには共感できるというひとも多いのではないだろうか。